ブランディングは自己確立
EPISODE-1
絵ではなくアイデア
業界への憧れ
北海道拓殖銀行広告(昭和42年)
私は北海道札幌で昭和37年に生まれました。
父は元農協職員でしたが、絵画が大好きでデザインを独学で学び、フリーランスに、その後自身の作品を売り込み、大手広告代理店に勤めます。当時としてはかなりの行動力だと思います。
その頃のデザインは全て手描き。フリーランスの頃は自宅作業場にお弟子さんが二人いて、ポスター等、広告の仕上げを分業していました。若いお弟子さんたちは幼かった私とよく遊んでくれたので、当時の情景はよく覚えています。
写真は当時、父が担当していた大手銀行の広告で、写真に写っている子どもが、実は私です。
ちょうど入学時期で広告のテーマにあっていたことからの出演でしたが、幸いクライアントにも好評で、その後レギュラーで数多くの新聞広告やポスター、テレビCMに使っていただきました。
当時の広告代理店や写真スタジオ、ロケ現場等は、幼い私にとってとても華やかな世界、もう小学校の頃には、「自分もデザイナーになりたい」と、強く思うようになりました。
幼少期の挫折
コンテライター時代の弟の作品
私の家庭は父だけでなく、母も美術や洋裁に精通しており、必然的にというか妙に絵や美術の教育に熱心なところがありました。
例えば家の中は落書き自由。壁や建具に落書きをしても怒られることはなく、むしろその絵を見て褒めてくれたり、父も絵を書き足すなど家中がキャンパス状態。また学校の宿題や成績にはほとんど口出ししないのに、図工や美術の成績が落ちると、異様に怒るなど、こと美術については、かなり極端に教育されていたのです。
そんな教育方針的なことは、3つ年下の弟に対しても当然同様で、彼が小学校に入ってからは、学校写生コンクールや公募のコンテスト等で、入賞入選を繰り返すようになっていきます。
私も当然応募しているのですが、入賞入選は弟の方が圧倒的に多く、当時はずいぶん落ち込んだり塞ぎ込んだりしたものです。
そして幼い頃から目指すデザイナーへの道も、目の前の弟にも勝てないのに、社会に出てからの活躍など、到底無理だな。と思い始め、かなりの挫折感を感じていました。
絵ではなくアイデア
デザイン業界誌
幼い頃からの挫折感や劣等感を感じていた小中学時代、私はあることに気づきます。
私の家の本棚には、父のデザイン専門書がずらっと並んでいるのですが、そのやや難解な書籍を見たり読んだりするのが私は大好きでした。あれは小学校の高学年か中学に入る頃だったと思います。
前半カラーページは、美しく進歩的なデザイン事例が編集されているデザイン誌ですが、後半のモノクロページに編集されている、いわゆるデザイン理論やマーケティングの見解、その広告意図、戦略の立て方等々は、読むとととても面白い。むしろ前半より重要だと気づきます。つまり描かれたデザイン以上に、その前提条件であるマーケティング調査やコンセプト立案、そもそもデザインアイデアにつながった戦略や考え方の方が重要で、自分には面白く、こちらの分野なら、自分もライバルに勝てるし、意義のある仕事になるのではないだろうか?
その後、デザインを専門的に学ぶようになった私は、デザイン力より、マーケ論やコンセプトワークを主体に追求するようになります。
EPISODE-2
成功と転落
バブル期にデザイナーデビュー
デザイナーデビュー当時
例えばバンド活動にはまり、セミプロミュージシャンをしたり、夜のお店でギターを弾いたりとか、多少道から逸れた事もありましたが、ちょうどバブルで日本中が高揚していた頃、私はデザイナーデビューします。勤め始めたデザイン事務所では、当時華やかだった飲食店のシンボルマークや様々なデザインツール、時に内装デザインにも関わり、キャリアを積む一方、当時CIブームと呼ばれた、企業ロゴとその体系デザインを若い頃から任され、毎日のように会社に寝泊まりしながら、創作活動を続けました。
どの仕事も出店計画や経営方針を理解した上で、戦略を立案しながらデザインを提案展開していく。幼い頃から慣れ親しんで学び続けたマーケティング論やコンセプトワーク、発想法、編集テクニック等が多いに役立ち、任される仕事の幅も広がって行きました。しかしバブル経済も崩壊し、多くの企業や店舗の業績が落ち込む中、勤めていたデザイン会社の業績も加速度的に悪化。自分の活躍の場がない会社に居座るつもりもなく、私は若くして独立を決心します。
高まる評価
当時の私そして海外視察風景
コネゼロ、伝ゼロで独立。最初は4畳半部屋での慎ましやかなスタートでした。
バブル後の後遺症で、停滞気味の社会情勢。幸い時間はたっぷりある。私は少しでも問い合わせや依頼があった仕事に、デザインアイテムだけではなく、必ず企画書をつけて提案するようにしていました。それが自分の得意分野であり、強みだったからです。
なかなかまとまった受注が得られない中、とあるショッピングセンターから頂いたちょっとした案件に付帯して提案した、施設内のイベント企画書が上層部の目にとまり、そのショッピングセンター年間販促計画を受注することとなります。
収益が安定した事もあり、思い切って一等地に事務所開設。また手描きに執着がない私は、すぐさま当時はまだ珍しかったコンピューターを導入。持ち前の企画提案力をさらに高め、評判や話題性、そして立地の信頼度を高めた結果、受注量は一気に拡大。大手メーカーや流通チェーンのブランド戦略や販売戦略を数々手がけ、受賞も重ね、業界内外で高い評価を獲得していきます。
リーマンショックとインターネット
Windows95
2005年、私はとある大手ブランド戦略に深く関わり、自身のオリジナルロジックを確立。評価も業績も一つの頂点を迎えますが、衰退の兆候も現れ始めます。マスメディアからインターネットへの移行です。かつて私はWindows95発売に沸く社会情勢下、すぐさま社外のブレーンとチームでインターネット事業に乗り出します。しかしながら当時の脆弱なネット環境、私の活動を疑問視する声、さらには自身の危機感や挑戦意欲も足りなく、インターネット事業は半ばで撤退。収益が上がり続けていたマスメディア、紙媒体を主体とした事業に専念、マス広告の事業規模を拡大し続けていました。
そして、その時は来ました。2008年リーマンショックです。
多くの企業が広告費を大幅に削減する中、売上は一気に1/3に。顧問税理士やコンサルタントに協力してもらいながら、資金調達、コスト削減、営業強化を図りますが、広告離れの社会情勢の中、インターネット事業で生き残る仲間とは対照的に、私にはなす術もなく、売上は1/10レベルまで下がり続けたのです。
EPISODE-3
ブランディングは自己確立
気づき
異業種メンバーとのミーティング
2011年、東日本大震災。広告やイベントの自粛ムードは一気に広がり、私も事業も息の根を止められた思いでした。
当時真っ暗になった東京の街。私の事務所は銀座にあったのですが、通勤途中の有楽町駅で何度も死のうと思いました。
藁をもすがる思いで、立ち上げメンバーに加わった異業種交流会で仲間と情報交換を繰り返すうち、私はあることに気づきます。
中小企業を経営するみなさんは、類まれなバイタリティーやセンス、行動力があるのに、ブランド戦略の基本的な構築法を全く理解していない。そのために非常に勿体無い、効果の期待できないサイトやツールを作っている。今まで大手企業の戦略ブレーンとして動いていた自分には見えなかった実態が、リアルに伝わってきたのです。
自主退社、見解の相違や話し合い等で、既に大半のスタッフを失っていた私ですが、一人の活動で、自分の持つノウハウを、まずは伝えていくことから始めよう!と決意。セミナーや講演、研修等、講師・コンサルタントとなる道を模索し始めます。
ブランディングで業態転換
セミナー事業開始の頃
今でこそ多くの方が行うセミナーですが、当時は開催も少なく、私のとっても未知の分野でした。私は同じように自分の仕事を革新したい異業種交流会の仲間たちとともにセミナーの研究と実践をするチームを結成。セミナー活動を開始しました。 仲間とともにセミナーのテーマを考え、その機会を創出し、お互いに応援する。 もともとプレゼンテーションが得意だったこともあり、そのコツのようなものをつかむのに時間はかかりませんでした。 ブランディングとはそもそも何か?どのような効果をどう創っていくのか?自分の業界内で、何十年と追及してきたこと、会社のスタッフや大手メーカー、代理店さんとともに切磋琢磨して追及してきたそのプロセス。そして自身で編み出してきたロジック。 セミナーの反応や感触を確かめるうち、これら自分の中で当たり前に実践し思考錯誤してきたことが、中小企業や個人事業主の方々にとって非常に重要なことを改めて確信するとともに、私の専門家としての評価も高まっていったのです。
ブランディングは自己確立
経営コンサルティング事業の確立
2018年、リーマンショックから10年、私のセミナーや講演、企業研修は既に述べ150回以上、経営者や個人事業主の方々との個別ミーティングは年間600を数えるまでになりました。
絵画やデザインを尊ぶ家庭に生まれ、才能溢れるクリエイターたちの中で、自身がこだわる企画力を磨き続けるも、一度は職を、そして生きていく意欲さえ失いかけた私ですが、自分自身の価値に気づき、新しい可能性に挑戦した時、道は拓けました。
そしてブランディングの専門家として改めて確信したこと。
それは「価値は商品にあるのではない。」ということです。
例えばエルメスは最初から鞄メーカーだったわけではなく、トヨタは自動車メーカーだったわけでない。「価値は会社自体、言い換えれば自分自身の中にある。」商品がかわってもブランド価値は変わらないように、人生において、自身の価値を確立すれば、生き方や商品は、いくらでも変えられる。ブランディングは自己確立の最強のノウハウであることです。
VISION
人々に生き抜く力を。
豊かな人生を。
真のブランディングを世に伝える。
モノが売れない企業、人生に悩む経営者、自分探しをする若者。
そして2020年、「リーマンショック以来の水準」「東日本大震災以来のマイナス」など、
経済指標も相次いで厳しい現状を描写する中、この局面を我々はどう克服していくのか?
ブランディングは単なる広告手法でもなければ、マーケティングテクニックでもありません。自分自身の価値を確立し、時代を生き抜く術であり知恵です。
真のブランディングを世に伝え、人々に生き抜く力を。そして豊かな人生を。
それが私の、ブランディングの専門家としての使命であり、達成したい未来なのです。